清風入梧竹(Ⅱ)

私は基本的に書作品の収集家ではありませんが、何かの機会に縁あって気に入った作品と出会った時には購入することがあります。特に書の大家の作品の中には、すぐれた技量による表現や高い精神性が感じられるものが多く、それらをじっくりと鑑賞することによって、少しでも自らの書の感性や鑑賞眼を高めていきたいと思っています。
しかし、書作品の鑑賞は感性だけでは限界もあります。時には判読が難しい字があったり、出典が不明の漢詩文であったりすると、それらも乗り越えないと十分な鑑賞とはいえません。掲載の中林梧竹先生の書は一見しただけで、清風が梧竹に入ってくるような感じのする爽やかな書です。ところが、この作品には独特の草書のくずしが多く、判読が難しい字も散見しました。このような場合、詩文の出典が分かれば、不明な字も直ぐに分かるのですが、いくら調べても出典が見当たりませんでした。
そこで、せっかく素敵な作品を入手したにもかかわらず読み方が分からないようだと梧竹先生に対して申し訳ないことだと思い、ゼロベースからの解読を試みました。
取り組み始めて大方は判読できましたが、二行目の下から二字と三字とだけはなかなか分かりませんでした。ひと月くらいかかりましたが、他の文句などとも比較しながら調べたり、考えたりして、ようやく「喚起」に違いないと判読するに至りました。
釈文が分かったら、今度は詩の文意になります。「零露」「汀州」「帰鴻」「喚起」「秋心」「辺愁」などの語句の意味を調べ、それらを総合してゆっくりと時間をかけて、自分なりに詩の作者の気持ちになって状況を想像してみました。その結果、考えついたのが下記の口語訳です。


この口語訳の中で、詩の作者が居る状況や季節などを考慮して一句目には「の地」、二句目には「北方から」を補いました。三句目の「齊(ひと)しく」は一、二句のことを指しているものと解釈し、重複を避けるためにあえて割愛しました。四句目は、季節の移ろいと解釈し、「過ぎていく」を補い、最後に「の地」も加えました。
私は漢文の専門家ではありませんが、今回あえてゼロからの読解を試みました。この経験を通じ、詩の鑑賞も書の古典臨書と同じように、鑑賞者の想像や感じ方に拠るところも大きく、解釈にも幅があり楽しいものだなと感じました。
箱書きについて
前回も箱書きについてのはなしをしました。「中林梧竹先生草書五絶」と素晴らしい筆跡で書かれ、並々ならぬ書家によるものであることには間違いありません。ところが裏側に筆者の署名が無いのです。そこで「先生」という文句が入っていることと、「先」や「絶」の終画が欧陽詢風であり、渡邊沙鷗先生の書と似たところがあることなどから、沙鷗先生の可能性があると思いました。しかし、沙鷗先生の書にしては線が滑らかであることが気になります。そこでもう一人可能性のある書家として、川谷尚亭先生も挙げておきたいと思います。お二人とも箱書きの例が少なく資料不足のため、なかなか判断が難しいのですが今後も研究テーマの一つとして検証を続けていきたいと思います。