感性とこだわり
桑原翠邦先生の筆の軸には墨がついていない。
淺沼一道先生の軸にも、また筆巻にも墨がついていない。
そしてお二方に共通していることがある。
使った筆の始末は自分でされると言うことだ。
旅の書家、桑原先生が旅先の地元の方に、揮毫後
「筆、洗いましょうか?」と言われた際、断ったそうだ。
「始末の加減がありますから」と。
当然だ。
淺沼先生の晩年、全書芸展に出された大作に使われた大きな筆。これは、わが先輩の故山口志峯先生と共に、体力勝負で洗わせていただいた。名誉なこと。任されたのだから。
他の普段使いの筆は必ずご自身で。
比田井天来同門、石田栖湖先生は普段の稽古などに使う筆は、ほとんど洗われなかったそうだ。墨でカチカチになった筆先を歯で噛んでほぐし、書かれたものも多いと聞く。わが家に掛けさせて頂いている作品もそうかもしれない。作品書きにおいて、全てではないだろうが。
筆は自身が用いる表現するための道具。使った後は、次にどう使うかで後始末の仕方を吟味するのは表現者として当然のこと。ただきれいに洗えばいいと言うこととは「次元」が違う。
鋒の全てを洗うのか、少し固めておくのか、その加減は書き手の感性が決めるものだ。
そしてまた、桑原、淺沼両先生の筆の軸や筆巻きに決して墨汚れがないのは書に対しての一つの主張であり、考え方。
残念なのはその弟子であるわが筆や筆巻きは…。いやはや。