歴史に学ぶ・日下部鳴鶴と書の「道」
5月初旬、全書芸本部から「会員ブログを立ち上げるので、ついては記事の担当を」との連絡をいただきました。突然の話に驚きつつ、一地方の私ごときがと思いましたが、昨今全書芸は、地方でも情報が受取れる様々な取組みをしています。ならば、逆に地方の会員が何かしらの思いを発信しても良いのではと考えお引き受けした次第です。
とは言うものの、はてさて何を書こうか・・・
やはりここは現下の「コロナ禍」に絡めたお話しをしたいと思います。
私たちが今日直面しているコロナ禍は、将来歴史の教科書に載る史実であることは間違いありません。
日本を含め各国の政策、私たちがとった行動は後々どのように語られ評価されるのでしょう。
「何て酷い!」と呆れられるのか、
「よくぞ頑張った!」と感心されるのか・・・。
歴史の評価は往々にしてその時代・人により変わります。そして未来の人たちはその時々の評価(解釈)を積み重ね歴史に学ぼうとするでしょう。そう考えると今の自分を改めて見つめなおさなくてはと痛感します。
さてこの自粛生活の中、先日書架を片付けていたところ
「特集 日下部鳴鶴」のタイトルに手を止めました。雑誌・墨・45号、昭和58年11月号です。
鳴鶴は、明治の三筆、近代書道の父、大家中の大家です。
全書芸誌・全書芸展でも幾度となく取り上げられていますが、この特集はその生涯をわかりやすく纏めていました。
内容は割愛しますが、
そこに「わたしの鳴鶴観」というコーナーがあり青山杉雨がこう書いているのが印象に残っています。
「今日多くの書を志す人たちは結論ばかりを考えていて、原因や経過を考えない。手っ取り早く仕上げることのみ奔命している観がある-(中略)-鳴鶴先生の書と人、さらにその書論の如きは、まず最初に考えてみなければならないものの一つではないか」
私たち会員は幸運にも「古典」を通して自らの「書」を追求するという全書芸にいます。
今「幸運にも」と言いましたが、
それが「偶然にも」であったとしてもこの特集記事を読んでみると古典を学べる私たちは「幸せ者」なのだと感じます。
しかし、古典に学んだからといって誰もが同じ解釈をし、同じ答えを出すとは限りません。
史実の評価が様々であることに似ているかもしれません。
にもかかわらず歴史(古典)に学ぶことが何よりも大切であるということを教えられています。
そんなことを考えると、私たちが歴史(古典)を学んでいる今この姿が、次の世代にとっての歴史にもなるわけです。
(残念ながら教科書に載るほどではありませんが・・・)
つまりは、私たちが日々仲間とともに古典に学び書を愉しんでいることが、知らず知らずのうちに未来へ歴史を伝えている。そう考えるとなんとも誇らしく思えてくる。
自粛生活、片付けは進まぬまま一人そんな合点をしたのでした。