意外と知らない日本の書道界の歴史と共に歩む全書芸
全書芸研究家
全書芸の前史として現在に至るまでの本院の流れを簡単に紹介させて頂きたいと思います。都合上、敬称は略させていただきます。誤りなども多々あると思いますので、ご指摘いただければ幸いです。
現在の混迷した書道界にあって、古典に立脚した純正書道を首尾一貫して実践している本院の渕源を溯るとするならば、江戸期より御家流書道の全盛によって堕していた日本の書道が明治13年の楊守敬の来日によって、その許(もと)で学ばれた日下部鳴鶴、巌谷一六、松田雪柯といった先生らによって、古典に立脚した純正書道が鼓吹され、その勉強グループ「述筆法堂清談会」に突き当たると言っても過言ではないでしょう。
その後明治27年に、日下部鳴鶴が門下の指導と自由討究の場として「同好会」を組織し、現代では当たり前となった古典に立脚した書道が全国に流布するに至りました。 更には大正6年の日下部鳴鶴の八十寿を記念として「同好会」を発展解消し、門下の比田井天来を経営者として「大同書会」を設立し、競書雑誌「書勢」が発刊され、古典に立脚した競書雑誌が誕生しました。
鳴鶴没後も刊行されましたが、名編集長と謳われた井原雲涯の死によって数々の名家を育てた「書勢」は昭和3年に一時休刊される事となり、大同書会の出版部門は比田井天来の書学院と合併しました。(現在の天来書院さんです)
その間は書道界の集合離散が繰り返されましたが、昭和12年には比田井天来が満を持して、かつての鳴鶴門下の同志、尾上柴舟一門、天来・小琴一門を結集して「大日本書道院」を設立され、「書勢」も復刊されました。その2年前の昭和10年には桑原翠邦が、比田井天来、田代秋鶴、上田桑鳩らを顧問として「清書之華」を発行しました。のちにこの雑誌は「書勢」の学童版の役割を果たして行きました。
昭和13年に「日満支親善書道展」が開催されました。日本側の事務方としては石橋犀水、北京側の事務方として桑原翠邦が当たりました。
昭和14年1月に比田井天来が死去しましたが、大日本書道院は尾上柴舟、田代秋鶴、鈴木翠軒、川谷横雲、比田井小琴、そして上田桑鳩を中心とする天来門下の尽力で継続しました。
同年2月には、日満支親善書道展と大日本書道院の発展を期して、最高幹部に尾上柴舟、田代秋鶴ら大日本書道院のメンバーを中心に「興亜書道連盟」が設立されました。日本側事務局は石橋犀水、北京側事務局は桑原翠邦があたり機関誌「興亜書報」が発行され、のち「清書之華」を合併して「興亜書宗」を北京にて興亜書宗院の名で桑原翠邦が発行しました。 昭和16年には大日本書道院も正式に合併され、「書勢」も「興亜書報」と合併されました。ちなみに興亜書道連盟のメンバーには、天来関係とは別に、園田湖城、田中親美、長尾雨山、宮島詠士、相沢春洋、中村蘭台、黒木拝石、松井如流、植村和堂、中谷釜雙、大津鶴嶺、青山杉雨、日比野涼雲(のちの五鳳)、小林浩堂(のちの斗盦)といった方々がいました。
戦争も悪化し、国策により全書道団体が合併することとなり、昭和18年には興亜書道連盟も「大日本書道報国会」に吸収されるに至りました。
そして終戦。
混迷とした戦後の世の昭和21年に田代秋鶴が兇刃に斃られましたが、かつての純正書道を志すメンバーにて日本書道学会、書道学校が設立されましたが、昭和25年の小野田通平との出会いにより桑原翠邦を会長に全国の鳴鶴・天来・柴舟・尚亭・秋鶴門下を結集して古典に立脚した純正書道を首尾一貫して実践する団体が立ち上がり、現在の『全日本書芸文化院』となるのです。