松本春子に逢う
今年も残すところあとわずかとなりました。
振り返ってみると、経験したことのないコロナ禍に身を置いた重苦しい一年でした。
しかし私とっては書についてたくさんの発見があった年でもありました。
その一つに、8月25日のブログで取り上げた新聞記事、帯広小学校卒業生の書家たち。
何となく聞き覚えのあった名前がはっきりと実態のあるものに置き換わった瞬間でした。
中でも“かな”の松本春子。明治33年帯広に生まれ。明治39年帯広小学校入学ですから、記事中の桑原翠邦先生の6年先輩です。
私はこのブログ投稿の少し前、地元に残る翠邦先生の作品探しの中で今は閉園となった【双葉幼稚園】にたどり着きます。
この幼稚園はキリスト教伝道師大井浅吉が明治44年初代園長に就任し、大正11年現在国指定重要文化財となる新園舎が落成しました。その外観は今なお独創的で目を引きます。
古い学校などには翠邦先生の書が必ずある!と確信に近いものをもって尋ねました。
面識がないにもかかわらず丁寧に対応してくださったのは初代園長のお孫さんにあたる河野マリ子さん。東京にお住まいですが毎年夏に帯広に戻っておられるとのこと。
思った通り翠邦先生の書が2作ありました。
この作品を今すぐにでもご紹介したいのですがここは我慢!です。
いずれ近いうちに。
今回は松本春子ですから!(笑)
河野さんのお話を伺っていると、二代目園長臼田梅(大井浅吉の義妹)と松本春子との交流の話が出てきました。
その中で、「帯広緑ヶ丘霊園にある臼田梅のお墓の字は松本春子先生に書いていただいたんです」と。
えっ!
驚きました。
そして即座に、
「お参りさせていただいてよろしいですか?」とお聞きしました。
「どうぞ、どうぞ、」
と言ってくださり、写真撮影も了承していただきました。
それからあっという間に三月半が経った12月1日。小春日和。
実はお墓の場所を伺っていなかったのですが、ゆっくり散策のつもりで歩いているとすぐに見つけられました。
墓前に進みお参りさせていただき、暫し佇み墓碑臼田梅之墓の文字とその手前にあるヨハネ第一書四章の言葉を呟いておりました。
写真撮影も済ませ、もと来た路を戻りながら
「来てよかった」と。
当初の目的だった写真撮影がかなった満足感とはかけ離れた、言葉では言い表し難いとても良い気持ちになれたのです。
帰宅後、墓参を思い起こしながら感じたことがあります。
墓石に刻まれた文字が手書きで無かったなら、果たしてそれらを口にしていただろうか、と・・・表情のある手書きは読み手にそこにあるものを理解させようとする力があるように思えたのです。
私たちが学ぶ「書」は芸術性の追求、作品作りということが目標にあります。
しかし、この墓参で「書」がとても身近な日常にあることも改めて強く感じました。
そういえば、確かに先生方から頂いたお手紙などは文字を追いつつ音読していることが多いなぁ。
父が所蔵していた「春の湖」。
私には当面の関心事ではなかったはずの作品集。
これを紐解くことになった今回の縁は小さなドラマ。
小さなドラマが積み重なって、さて来年はどんなドラマに出会えるのか。
皆さん、どうぞよいお年を!!