「漢委奴国王」金印の解読における通説の「奴」の誤解と真実
AD57年に日本に伝来した「漢委奴国王」の金印の通説の読み方と解釈に疑問を抱き、以後真実を知りたく長年にわたり研究を続けてきました。
金印研究の問題は多岐にわたりますが、大きく解読と真偽の問題があります。真偽については以前から一部くすぶっていたのが、近年、偽印説を唱える人がいろいろな所で発表し物議をかもしたりしました。しかし、私は一貫してこの印は真印と確信していますので、それを前提にして解読上、解釈上の問題を話したいと思います。
通説の誤解とは
(1)偶然によって生じた二つの「奴」の誤解
57年の朝貢の際に印綬を受けた「漢委奴国王」の金印の印文の「奴」と3世紀末の「魏志」倭人伝に記載されている北九州の「奴国(ナコク)」が同字であったことと、発見場所がかつて「奴国」が存在していたとされる地域と距離的に近かったことの偶然が重なったため、印文の「奴」が国名(地名)の「奴」と同じものであると誤解してしまったのです。
(2)二つの「奴」には200年の時間差がある
先ず、57年の「漢委奴国王」と3世紀末の「魏志」倭人伝に記載されている当時の日本の数多く紹介されているの国名(地名)の中の一つの「奴」とは200年もの時間差があることを理解しておく必要があります。
(3)漢時代、日本列島内の詳細な地名を漢廷は認識していたのか?
「魏志」倭人伝より約200年前に当たる57年当時、はたして漢廷は日本列島内の詳細な国名「地名」を認識していたのかということが問題になります。印文の「奴」が北九州にあった「奴国(ナコク)」だとするならば、漢廷は57年ころの日本列島内の詳細な国名(地名)を認識しているはずです。
(4)「漢書」地理志によると当時の日本列島の情報は極めて少ない
「夫れ楽浪海中に倭人有り,分かれて百余国を為す。歳時を以って来り献見すと云ふ。」(原漢文)と記載されています。まだ漢時代頃は具体的な百余国の国名(地名)は分かっていなかったようです。
200年後に「魏志」倭人伝に登場する「奴国(ナコク)」の名称は「漢書」地理志には見当たらず、金印下賜の1世紀のころは、まだ不明とするのが妥当な考え方です。
(5)仮に「ナ」の名称を認知していたと仮定したらどうなのか?
もし仮に57年の朝貢の際、使者が倭の中の「ナ」というクニの王の使いで来たと言ったとして、漢廷が名付けた「委(倭)」(他称)の後に自称である「ナ」を聞き入れて、それを音表記して「奴」字を用いて「委(ノ)奴国」という称号を与えたりするでしょうか。その考え方はあまりにも無理があり過ぎると思います。ちなみに「イト」と読んで奴国に近い「伊都国」に与えたとする説も同様の考え方であり得ないことです。
(6)漢印(中国官印)の中で異民族に与えた印例で相手方の国名を二つ並べることはあるのか?
漢代以降の中国官印の中で異民族に与えた印例を詳細に調べてみると「漢・A・B・国王」(この印でいうと、Aは「委(倭)」Bは「奴」に相当する。)のように相手方の国名を二つ並べる例はありません。この印におけるAとBは一体のもので「AB」で単独の国名と考えるべきです。
(7)発見場所の近くに「委(倭)国王」の本拠地はあったのか?
この金印は江戸時代に福岡県志賀島で一農夫が作業中に偶然発見したものでそれについては諸説ありますが、ただ一つだけ確実に言えることは、いつ誰が何のためにそこに埋めたのかは全く不明だということのみです。つまり、「委(倭)奴国王」の本拠地がその近くにあったことにはならないのです。発見場所が奴国と距離的に近かったことも、印文の「奴」を「ナコク」の「奴」であろうと判断を誤まらせてしまった大きな要因の一つと言えるでしょう。
(8)「親魏倭王」の称号との比較
「魏志」倭人伝によると、239年に邪馬台国の女王、卑弥呼が使いを送り「親魏倭王」の称号と銅鏡などを受けとったと記されています。もし57年の称号の「漢委奴国王」の「奴」が北九州の「奴国(ナコク)」の「奴」から名付けられたというのであれば、卑弥呼の称号も同じ手法をとると「親魏倭邪馬台国王」としなければなりません。しかし、(5)で述べたように相手方の国名を二つ並べることはなく「邪馬台国」の国名は「親魏倭王」の称号の中に一文字も入っていません。このことからしても57年の「漢委奴国王」の「奴」は「奴国(ナコク)」の「奴」でないことは明白です。
(9)日本史的見地を優先し過ぎたたことが誤解の原因
これまで研究者の方々が、何故(1)から(8)のような誤解をしてしまったのかは、いくつかの理由がありますが、その根底にあるのは一つは日本側の歴史観を優先し過ぎてしまったこと、もう一つは日本にかぎりませんが、権威のある人の説には疑問を持たない傾向によるものです。与えた側の立場や慣習を十分理解しない中に結論が出て、それが長年にわたり通説として定着し(1)から(8)の疑問を呈する人が誰もいないまま今日に至ったのです。
「漢委奴国王」の「奴」の真相
(10)印文の「奴」が「ナコク」の「奴」でなかったら何なのか
この「奴」の真相解明はいろいろ考えられ、たいへん難解ですが何とか解き明かさなければなりません。
漢廷が異民族に印を与える際に印文の一部に「帰義、卒善、卒衆」などのような語句を入れることがよくあります。「奴」もそのような修飾語的な使われ方のようにも見えますが、よくよく考えますとそれも違うように思われます。
(11)「ヌまたはナ」音を表記した「奴」は「族」の意味か
それでは「奴」は何かというと、まずは「委奴国」は一つの固有名詞であり国名だということです。そして結論から言いますと、印文の「奴」は民族や部族の「族」、平たく言えば「人の集まり」を表していると考えられます。ただし、重要なのは「奴」字そのものに「族」の意味があるのではなく「ヌまたはナ」の音に「族」の意味がある(匈奴の言語と思われる)ということです。「奴」は単に漢廷が同音の漢字を当てたにすぎません。
(12)西の「匈奴」に対して東の「委(倭)奴」
私たちは匈奴のことをふつう「キョウド」と言っていますが、本来、「匈奴」は「フンヌ」を同音の漢字で表記したものです。匈奴は漢との抗争の末しだいに西へ追いやられ、その末裔たちは「フン族」として中世のヨーロッパに甚大な影響を及ぼしました。
名称としては「フン族」とは言いますが「フンヌ族」とは言わないことからも「ヌ」には「族」の意味があるのではないでしょうか。
57年の朝貢に際して何故「匈奴」にちなんで「委(倭)奴」と名付けたのかは漢廷が、何か匈奴との共通性を見いだして対比したものと思われます。
(13)分かれて百余国
匈奴は多部族集団で東西交易の利権をめぐって漢とたびたび激しい抗争を続けてきました。それに対して友好的に朝貢をしてくる倭には即位して間もない光武帝は好待遇で迎えました。匈奴の首長に与えた印は数多くありますが、銀印が最高であるのに対して委(倭)奴国には金印を与えたことこからも待遇の違いが分かります。
「匈奴」にちなんで「委奴」と名付けた理由は(4)の「分かれて百余国を為す」の情報が少なからず影響したと考えられます。百余りの多部族の集合体の国で匈奴と国内の政治状況が似ていると見て、西の「匈奴」に対して東の「委(倭)奴」と名付けたのではないでしょうか。
(14)「委(倭)奴国」とは
(10)から(13)のことから「委(倭)奴国」の名称は「委(倭)族の国」または「委(倭)人たちの国」という意味を持つと解釈するのが最も真相に近いように思われます。
ちなみに「委(倭)奴国」の名称は57年の朝貢以後使われたことがないこともつけ加えておきます。
まとめ
(1)から(14)までの証左により「委(倭)奴国」の「奴」とは、かつて北九州に存在していた「奴国(ナコク)」の「奴」ではないことを認識し衆知しなければなりません。
印文の読み方も、これまでの「漢の委の奴の国王」では「奴」が地名の「奴(ナコク)」を指してしまうため誤った読み方となります。「委奴国」は「の」で切ることの出来ない一つの固有名詞なので、正しくは「委の奴の国王」の「の」を削除して「漢の委奴国王」と読み方も改める必要があります。
「委奴国王」とは、その名称は57年の朝貢に際して漢廷から与えられた他称の称号であって、日本の地名である自称の奴国や伊都国とは名称としては関係ありません。「委奴国」の実体は当時「分かれて百余国」の中で最も有力な豪族の王で、その自称の国名(地名)は「委奴国」という名称とは全く異なる名称の国名(地名)であると説明を加えなければなりません。
あとがき
「委奴国」の日本の中での自称の名称も気になるところですが、今回はこれ以上のところは控えさせていただきます。「委奴国」の自称の名称は「魏志」倭人伝に登場する多くの倭国内(日本の中での)の国名(地名)の一つである可能性が極めて高いので、興味のある方はご自身で考えてみるのも良いかと思います。