書家・桑原翠邦と篆刻家・高石峯~古河市・篆刻美術館~
全書芸スタッフ
11/19(火)まで開催の古河市篆刻美術館企画展「書家桑原翠邦と篆刻家高石峯」。11月4日にギャラリートークを担当された吉野大巨先生のFacebookページよりお届けします。吉野大巨先生が、高石峯先生の篆刻芸術の素晴らしさ、桑原翠邦先生と高石峯先生の書作品を前に、お二人の深いつながり、お互いに認め合い、高め合った人生をお伝えします。
高石峯先生について
比田井天来先生は、「漢人餘意」と、
桑原翠邦先生は、「比肩殷人・無古無今・天下一人」と、絶讃しています。
住所印で、判明。
比田井天来先生の代々木書学院の近くに住んでいました。「代々木初臺618」
二人の恩師。
一人は昭和7年からの比田井天来先生。書・人生の大恩師です。書学院の部屋で、向かい合って、金文で一緒に印稿を考えてくださいました。
昭和11年に入門の河井荃廬先生は篆刻の大恩師です。
初めは、天来先生に内緒で晩翠軒に行くと言って、河井先生を訪ねました。
天来先生は、ご存知でした。河井先生は客分として、奥の書斎に通して下さったと。
昭和7年から比田井天来先生逝去の14年までは、金文のがっちりとした深い厚い強い作風です。
天来先生逝去のあとは、河井先生の指導の、鄧石如・呉煕載・徐三庚・呉譲之・呉昌碩・趙之謙の作風を研究しました。
昭和19年帰国。戦争・動乱の後、昭和26年から36年の10年間、全州市金山寺に入山、修道哲学を研究します。韓国・日本の書壇・印壇と20年間距離を置きます。
そして、昭和40年の日韓友好条約の締結が有り、60歳で、大きく花が開きました。日本書学院同人の招請で来日も出来ました。
依頼があれば、半切用の七分・八分だけで無く、縦8センチの大きな雅印を刻しています。朴正煕大統領や金鍾泌氏・文鮮明の著名人の依頼が有リました。
高石峯先生揮毫の碑も有り比田井天来先生の木簡隷書の作風を受け継いでいました。
高石峯先生は、若い時から大学ノートに、印稿を残していました。遺品に何冊も有りました。昭和51年の桑原翠邦先生の古稀銀座展の帝国ホテルで祝賀会の壇上に、当時の、25歳前後の吉野の仲間の前に忽然と登場されました。
後日、桑原翠邦先生に高先生を荻窪の西郊旅館に訪ねる許可を話すと、君達若い人が、高先生を訪ねてくれると、私が助かるので、行きなさい。ここから、仲間と荻窪・韓国通いが始まりました。
高石峯先生が刻した印
高石峯先生は、昭和10年頃の30歳代に、
比田井天来先生
田代秋鶴先生
そのお弟子さんの
上田桑鳩先生
金子鷗亭先生
手島右卿先生
桑原翠邦先生
南不乗先生
二宮景雲先生
高澤南総先生
田上帯雨先生
堀愛泉先生
鈴木方鶴先生
無心会の先生方
昭和41年60歳代に、
東京 淺沼一道先生
帯広 柴田蕙山先生
愛知 岩田文堂先生
東京 佐々木黙風先生
埼玉 秦大猷先生
横浜 平井悟龍先生
札幌 山田太虚先生
近藤宗龍先生
昭和51年から63年の高石峯先生が83歳になるまでに、現在の70から80歳代になりました仲間からたくさん依頼が有り刻しました。
梶田越舟
五十嵐天宗
米田英石
佐藤太碩
谷川北厓
古谷春峰
佐藤容斎
大石六田
小林翠径
吉野大巨
井上素山
藤倉小鷗
望月香雪
歿後30年が過ぎた現在の令和になっても、70歳から80歳前後の仲間にもたくさん刻印を残し、今も作品に押印して新しい作品に使用されている事が、特筆されます。
高石峯先生との約束
高石峯先生刻印で吉野大巨使用の引首印が有ります。これらには、吉野がこれから進む心構えが刻されています。